小堀哲夫さんの『建築家のアタマのなか』は、一見すると自由奔放に綴られたエッセイのようでありながら、じつは建築への思想、設計の過程、そして実際に形ある建築物をつくる意義――この三つの軸を巧みにまとめた一冊であると感じられた。
私なりに小堀さんの考え方を“超訳”するならば、建築はただの「箱」であり、その箱の中でどんな営みが生まれるのか、外の世界で人と人とがどうつながるのかが重要だということだろう。しかも、その箱をただの器扱いするのではなく、人が自然を感じられる装置として捉える視点も見逃せない。
では、どうすれば人間の営みを最大化し、幸福度やパフォーマンスを高める空間を実現できるのか。あるいは、建築をノード(節点)として地域や都市を結びつけ、人や自然が共存するコミュニティをつくり出すには、何をすればよいのか。そうした問いに対する答えが、小堀さんの設計プロセスのなかに詰め込まれている。
本書を通じて感じるのは、「空想」というキーワードの重要性である。ファサードを前にしたとき、あるいは内部空間に身を置いたときに沸き起こる感覚――たとえば和風建築を前にした際のノスタルジックな情動や、モダニズム建築に触れたときの威風堂々とした力強さ――それは言葉でうまく言い表せないことが多い。こうした「なぜそう感じるのか」を思い巡らせる行為こそが、彼にとっての空想なのだとわかる。
そして、その空想をふわりと宙に浮かせるのではなく、しっかりと質量を与える役割を担うのが「観察」である。実際に現地に足を運んで建築に触れ、さまざまな視点から眺め、これまでの旅で得た経験や情報を重ね合わせて解像度を高めていく。人によって解釈は十人十色かもしれないし、真の本質に行き着くのは難しいのかもしれない。けれど、その途上にこそ大きな憧れがあり、私自身もその過程を追体験してみたいと強く思う。
さらに、自分の内面に落とし込んだ情動や情報に、ワークショップなどを通じてクライアントや地域の人々の意見をプラスし、新たな視座と解像度を得る。単なる意見交換にとどまらず、クライアントにもオーナーシップを持ってもらい、「ここで大きな企みをもって動いていくのだ」という方向に導く。この段階における微妙な調整や関係性の構築は、まるでコーティング作業のように繊細なものだと感じられる。
そうして得られた膨大な情報をもとにインスピレーションを駆使し、小堀さんは“自分なりの解”を提示する。こここそが建築家としての腕の見せどころなのだろう。あとは施工会社と綿密にやりとりをしながら、施工管理という泥臭い作業を進めていく。場合によっては衝突もあるかもしれない。けれど、完成した建築を数カ月後、あるいは数年後に皆で眺めながら肩を組む様子を想像すると、ものづくりの過程には確かに愛が宿っているのだと感じざるを得ない。
かつて槇文彦は「建築は無償の愛」と語り、o+hは「愛される建築」を掲げた。これらは単なるレトリックなのかと考えたこともあるが、小堀さんの一連のプロセスを知ると、なぜある空間を心地よいと感じるのか、その疑問にひとつの回答を与えてくれるように思う。自然と営みを基盤として空想し、それを丹念な観察と対話によって形へと落とし込む。この視点によって「空間がなぜ心地よいのか」を探るヒントが見えてくるのだ。
いつか、小堀さんが設計した「あらわ屋」や「ROGIC」を自分の足で訪れ、そこで空想にふけりたい。そのとき、自分が味わう感覚はどんなものなのか、ひそかに楽しみにしている。
